過去の店長日記
伝統の技が今も生きる桐生の作務衣
桐生織物のおこりは、約千二百年前の淳仁天皇の時代にさかのぼります。
近世にはいると幕府の保護のもと伸展し、天保三年には、桐生絹市が開始され桐生織物の基礎が確立されました。
『西の西陣、東の桐生』と言われ、高級品織物を中心に、昭和初期までは日本の基幹産業として栄えてきました。
染色・洗浄に適した桐生川の水や周辺に養蚕・製糸地帯をひかえるといった立地条件にささえられ、今日も織都・桐生の歴史は受け継がれています。
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本来であれば、身分の違う久助には決して叶わぬ恋でしたが、白瀧姫を想う気持ちを見事な和歌にして、帝に白瀧姫を桐生に連れ帰ることを認めてもらうことになります。
伝説がどこまで真実を含んでいるかは不明ですが、1600年には、徳川家康が小山にいた軍を急に関ヶ原へ返すとき、急使を送って旗絹を求めた際には、わずか1日ほどで2千4百10疋を天神の境内に集めて納め、織物生産地としての桐生の名声を高めたという史実もあります。
また桐生では、優れた技術者には伝統工芸士の称号をおくり、技術をみがき、後継者にその技術きちんと伝えるということを市全体で進めています。 のこぎり屋根というのは、北側の天窓からやわらかい光を場内に入れるために作られた織物工場のものです。 |
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織物の町「桐生」のメーカーとして、和粋庵は伝統の技術を受け継いでおります。芸術品といっても過言ではない製品は、技を極めた職人が一枚、一枚手作りした品質の高い一級品です。 現在、日本国内で販売される衣料の8割以上は、中国や東南アジア諸国からの輸入品という状況です。中国や東南アジア諸国の繊維に日本の繊維産業が押されているのは確かです。しかし、それでも日本の高い技術、素晴らしい伝統を受け継ぎ、それを元に新しい技術に挑戦し、決して妥協のない高品質の商品を世に発信し、後世まで残していく、それが和粋庵のコンセプトです。 | |
和粋庵が現在もっとも力を入れている製品が”作務衣”です。 禅寺では掃除などの日々の業務を作務と呼び、この時に着用する作業着を作務衣と称したことが、『作務衣』のルーツだと言われています。 |
【1】「のし」 和粋庵の作務衣は、「綾織作務衣」、「絣紬作務衣」、「麻混作務衣」などありますが、それぞれ長く使える丈夫さ、着心地の良さなどを踏まえて厳選した作務衣に適した生地を使用しております。 その生地を作務衣の形に裁断していくわけですが、特殊な裁断機で作務衣の生地をまとめていっぺんに裁断するため、何枚にも正確に生地を重ねていきます。 この作業は「のし」と呼ばれます。 | |
【2】「型取り」 幾枚にも重ねた生地にペンで作務衣の型を取っていきます。 これは裁断の際に目安となる線であり、「のし」をした一番上の生地に丁寧に線を書きます。 サイズによって、型の置き方が異なり、1枚の生地から作ることのできる作務衣の枚数も異なります。 オリジナルの寸法で製作する際にはお値段が高くなるのは、メーカーの持っているこの型を使用できないため、その分手間がかかるためです。 | |
【3】「裁断」 「型」をとった生地を、その型通りに特殊な裁断機で何枚もまとめて裁断していきます。 ここで正確に裁断をすることで後の縫製がしやすくなり、寸法の違わない、丈夫な作務衣ができます。 熟練の技で作務衣が1mmのズレもなく裁断され、数十というパーツに分解されます。 | |
【4】「芯入れ」 襟となる部分の生地に「襟芯」と呼ばれる厚めのしっかりとした生地をアイロンで貼り付けます。 この「襟芯」がないと、襟の部分がしっかりとしませんので大事な工程です。 外からは見えない部分ですが、ズボンの胴回りなどにも、これと同じ洗っても弱くならない強い生地を入れてあります。 | |
【5】「縫製」 何十年も縫製一筋の職人さんが一枚一枚裁断されたパーツを縫っていきます。 縫製には、家庭にあるようなミシンよりも構造が複雑な業務用の特殊なミシンが使われ、簡単には解けないよう「ロック」と呼ばれるしっかりとした縁かがりを施します。 和粋庵では長く愛用していただくために一枚一枚本当に丁寧な縫製をしており、股の避けやすい部分などには小さいパーツではありますが裏から生地当てなどもしております。 |
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